子どもひとりひとりを、みんなで見守る社会をつくりたいから。

 

いま、いじめ問題が多発しています。被害者の中には、自ら命を落としてしまう子も。

「どこに責任の所在があるのか。いじめられる方にも問題があるのではないか。全てが加害者の責任で、被害者に全く責任がないという訳ではない。本質的な解決のためには…」そういう声も聞こえてきます。確かにそうかもしれません。

しかし、なにより見過ごせないのは「自ら命を絶ってしまうほど、苦しい思いをしている子どもが、今もどこかにいる」ということです。それだけの苦しみは、いったいなにを犯せば被るというのでしょうか。

この問題の本質的な解決には、教育が必要でしょう。そしてひとつの文化を確立するほどの長い年月が必要です。だけど、そんなことを待ってはいられません。実際に命がなくなっているこの状況で、一刻の猶予もないでしょう。机上や紙面上で議論している場合ではありません。

責任の所在、責任の置き場を探している場合ではありません。確かにそれは必要なことでしょう。国や警察はそのような事後処理は得意ですが、先手を打つのが苦手です。しかし後手に回っている、その間にも、どこかで命が潰えようとしているかもしれないのです。私たちに今必要なのは、国や警察ではできない、すぐ動ける、先手を取れる存在だと考えます。私たちの目的は「最悪の事態になる前に、未然に防ぐ」ことです。

私たちは被害者、加害者という考え方をしません。全てが感情を持った人間であり、複雑に個々の感情が絡み合う現代社会において、いじめや衝突は当然起こり得るものだと考えるからです。大事なのは、そこでどうするか。最悪の事態となる前に。

責任の所在という考え方にも、違和感を覚えます。市長なのか、教育委員会なのか、教師なのか、いじめっ子なのか、当事者なのか、保護者なのか、国なのか、警察なのか、周囲なのか。もしどこかに責任の置き場があるとしたら、それは環境であり、この社会そのものでしょう。

そう考えると途方もないかもしれませんが、きっと、その事態に対して、みんながそれぞれに、なにかできることがあったはずです。それを、それぞれの責任を果たせば、最悪の事態は避けられたかもしれない。でも今は、それに気付けない、SOSを汲み取れない、なにをしたらいいのかわからない、そんな社会になっているのだと思います。

あるところで、いじめを苦にしての自殺がありました。それは、このプロジェクトの発起メンバーのひとりの家の近所の子でした。しかし、サイレンが鳴り、なにかあったのかと思い、その後ニュースになるまで、そのことに気が付きませんでした。

交流があった訳ではありません。しかし、死にたいほど苦しんでいる子が地元の学校に通っているのに、なにもできず、最悪の事態が起きてしまった後にしか、気付くことしかできないなんて、なにかがおかしいと思います。

ご近所付き合いがないというのは、現代社会において珍しくないことでしょう。昔なら、近所の人が、第三者として異変に気付いてあげられたかもしれません。しかし、今は、最後の最後まで無力です。もしそれが、この時代、この社会の弱点であるならば、この時代の強みを生かして、それを挽回したいと考えます。

私たちが目指すのは「全ての子どもの味方である最強のご近所さん」という第三者です。誰も気付けないというのなら、私たちが気付きます。最悪の事態になる前に。ニュースでは事後報告しかないというのなら、私たちが発信します。最悪の事態になる前に。責任に気付けない、適切に動かないというのなら、私たちが動かします。最悪の事態になる前に。

子どもひとりひとりを、みんなで見守る社会をつくりたいから。